2024年6月



6/1 sat

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人生には、何もしなくて いい時がある。
ぼんやり しないほうが もったいない。
》 (益田ミリ『今日の人生3』ミシマ社)

高名な禅師など、あるいは哲学者も、じつは同じことを言っている。ムダに修行し、とことん考えて言っても、じつは、益田ミリがマンガでさりげなく書き付けたことばと同じなのだ。
このことばは、易しく、優しく、何気ないが、よく人の人生の深みに届いている。人生というものは、浅く意識し生きても、ちょっと深く意識し生きても自由だけど、この益田ミリのことばに「立ち停まる」感性が違う、と思う。
人生の深みというものは、深すぎると息が続かないから、ちょっと立ち停まり、「ぼんやり しないほうが もったいない(なあ)」と感じるのが「良い」のである。
ちょっと「文学的」に生きている、ということだ。

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断片》 (カフカ『カフカ断片集』新潮文庫)

先月の新潮文庫の新刊『決定版カフカ短編集』に続いて、「文学紹介者」と自称する頭木弘樹の編集による、カフカの「断片」集だ。
とりあえず、文学の業者(小説家とか評論家とか)や、研究する業者(大学などの知識人)ではない、カフカを読むことで病いの日々を、その苦難を乗り越えてきた「文学紹介者」が編集した、と言うことが大事で、さらにカフカを「断片」として捉えていることが大事、そういう新刊のカフカである。
フランスの文学者、モーリス・ブランショは、こう言っている。
カフカの主要な物語は断片であり、その作品の全体がひとつの断片である。》(モーリス・ブランショ)
敷衍すれば、人間は、人間自身が「断片」であり、人間が見ている世界もまた「断片」なのである。ぼくは、カフカの見ている「断片」がリアルそのものであり、ふつうに現実と言われているものこそ「虚構(フィクション)」である、と理解している。

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人は物語に付き添われながら、一生をまっとうする。》 (梨木香歩『ここに物語が』新潮文庫)

ふつうに現実と言われるものが虚構(フィクション)であるなら、人の人生というものも当然に「虚構(フィクション)」である。であるから、人は「物語」に「付き添われながら」「一生をまっとうする」のである、とする小説家・梨木香歩の、このことばは、まさにリアルなのである。
人は、虚構に生き、虚構のまま一生をまっとうするのである。まっとうする、というのは、虚構から逃れることはできない、ということだ。哀しい生き物だ、人間は。

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芸術家は英雄(HERO)ではなくて無(ZERO)だ。》 (アンディ・ウォーホール『ぼくの哲学』新潮文庫)

アンディ・ウォーホールは、芸術家(アーティスト)だから、いくら現代美術(ポップ・アート)の〝巨匠〟だと言われても、自分は「英雄」などというものではなく、あえて自分を示すなら、それは「無(ZERO)」だという。
優れた芸術家は、正しいこととか希望とか…そんなものを表現しようとしているのではない。ふつうの人々、大衆が自らの目ではみることのできない、「リアルの光景」を「垣間見せて」くれるのである。芸術は、きっと「容赦ない」表現なのである。人生など、社会など…すべて「意味のない」フィクションだ、と示すのである。垣間見るだけに、しておいた方がいい、芸術表現は。








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